どんなに正しいことでもそれを受け止めることができない人がいる。
人は何年も継続してきた習慣を簡単には変えられないらしい。学生から社会人へと環境が大きく変わろうとも、すぐに適応して十分なバイタリティを発揮し、その情熱で新たな学びを得て成長し続ける人がいる一方、周りに言われる通りに、あるいは、惰性のままに生きてきた結果、自分の頭では何も判断ができない人もいる。
何事も自分の物差しだけで判断してはいけない。私はものごころついた時から、自分とは何か、大人になるとはどういうことか、ぼんやりと考えていた。そのせいで、学生のうちは将来への不安がますます増えていったが、だからこそ、自分のことをよく考えて顧みる癖がついていたと思う。これは、若いうちなら誰もが考えていることだと思っていた。また、仕事を得たのなら、それなりの評価を受けたいし、あるいは少なくとも惨めな思いをしないためには、嫌々であっても勉強しながら生きていくのは当然のことだと考えていた。
しかし、そうでない人間がいる。何を考えているのかはわからない。分かろうとすることが愚かなのだとは思う。理解するのでなく、多分、そういう感覚があるということをぼんやり知っておくだけでいいのだろう。なぜなら、当人自身がはっきりと自覚を持って「俺は何もしない。どうにもならなくていいし、惨めだけど毎日終業まで耐えることを定年まで繰り返せば勝ちなんだ。」と思っているわけでもなさそうなのだ。彼らは多分、「なんか嫌な思いをすることがある。だけどどうしたらいいかわからない。とりあえず給料が入ったからガチャ回そう。」くらいにしか思っていない。それ以上のことを考えてことがないのだと思う。
そうとでも思っておかなくては、どうやっても納得がいかない。しかし、一度そうやって受け止めてみればこれは実に単純な問題である。
バッタや金魚が悩みを持つか?想像を巡らせる。足が取れてしまったバッタ、過剰に品種改良された金魚など、人間の基準で考えれば明らかな異常事態がたくさんある。しかし、当人たちはそんなことは悩む必要さえない。足が欠けていれば、動きが鈍くなるかもしれない。捕食される可能性が高まるだろう。しかし、彼らは気にしない。手術や老後の生活を考えたり、足が欠ける前のことを思い出して感傷に浸ることもないし、仲間に異様な目で見られることもないだろう。
それと同じことなのだ。世の中にはバッタや金魚と同然の人間がいる。それも、少なくないらしい。だからこそ、我々に求められるものは彼らとの対話ではない。必要なのは、指導力でも理解力でもなければ、取扱説明書でもなく、なるべく早いうちに相手が人間かどうか見極める能力である。